アントニオ猪木の名言


アントニオ猪木の名言

Antonio Inoki
アントニオ猪木

日本のプロレスラー、実業家、政治家。

国: 日本(神奈川県横浜市鶴見区)
生: 1943年2月20日

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1943年2月20日、神奈川県横浜市鶴見区に生まれる。本名は猪木寛至(かんじ)。

父は猪木が5歳のときに死去。実家は石炭問屋であったが、戦後になりエネルギーの中心が石油に移り変わり倒産。

貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、猪木が13歳のときに母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。

猪木はブラジルで陸上競技選手として現地の大会に出場し、砲丸投げで優勝するなど活躍。

1960年4月、17歳の猪木はブラジル遠征中の力道山(1924~1963)の目に留まり直接スカウトされる。

日本に帰国した猪木は日本プロレスに入団、1960年9月にデビュー。

デビュー後、猪木は力道山の付き人となったものの、力道山は1963年12月に死去。

1964年、21歳の猪木はアメリカ武者修行に出発。

1966年に帰国後、猪木をエースとする東京プロレスを旗揚げするも3カ月で倒産。猪木は日本プロレスに復帰する。

日本プロレス復帰後はジャイアント馬場とのタッグチーム「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。

その後、馬場との対戦要求が容れられなかったことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から猪木は1971年に追放処分を受ける。

同年11月、28歳のアントニオ猪木は女優の倍賞美津子と結婚。

翌年、猪木は新日本プロレスを旗揚げ。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であったが、アメリカのプロレス団体WWWF(現:WWE)と提携して以降は外国人スターを呼べるようになり、プロレス黄金時代を築いた。

新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」と標榜。アントニオ猪木は自身の最強を証明するため、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。

1976年、33歳の猪木はプロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリと対戦。世界各国に中継され話題を呼んだ。

1989年、46歳の猪木はスポーツ平和党を結成。同年の参議院選挙に出馬し初当選。

1998年4月、猪木は55歳でプロレスを引退。

2013年、参議院選挙に日本維新の会から出馬し当選。2015年に離党し、日本を元気にする会の結党に参画した。2016年の日本を元気にする会・無所属会の解散後は会派「無所属クラブ」に異動。

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もともとありもしない「限界」にこだわると、己れの力に疑問をもつようになり、しくじったり、できなかったとき、「ああ、これが俺の限界だ、もうダメだ」とギブアップしてしまう。

コンプレックスをバネに飛躍することができるのではないか。

一生懸命やっている人を小馬鹿にするのは、自分がかなわないから笑うことで逃げているのだ。

ただ単に相手を倒すだけであったのなら、社会において何の価値があろうか。

俺は人が喜んでくれるのが、生きがいというか喜び。

人間には、必ず人生の転機を直感し、的確に判断できるかどうかを試される時が何度かある。

夢を持て!でかければでかいほどいい。とにかく、夢を持て。大ぶろしきをひろげておさまりがつかなくなってみろ、やらざるを得なくなるではないか。

自らに満足している人間は、それで終わりだ。

人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめたときに、年老いていくのだと思います。

子供に夢を持たせたければ、大人こそ夢を持て。

自分の我を引っ込めたときには、必ずといっていいほど挫折感を味わう。

優しさのない正義はなく、強さもない。

 
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