村上春樹の名言


村上春樹の名言

Haruki Murakami
村上春樹

小説家、翻訳家。世界文学へ貢献した作家に贈られるフランツ・カフカ賞を2006年に受賞し、以後ノーベル文学賞の有力候補と見なされている。

国: 日本(京都府京都市伏見区)
生: 1949年1月12日

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1949年1月12日、京都府京都市伏見区に生まれる。まもなくして父の赴任にともない兵庫県西宮市に転居。

村上春樹の父は京都府長岡京市の浄土宗西山派光明寺住職の息子、母は大阪・船場の商家の娘という生粋の関西人であり、両親ともに国語教師であった。春樹は両親の影響を受けて読書家に育つ。

高校は兵庫県立神戸高等学校に進学。両親が日本文学について話すのにうんざりし、春樹は欧米翻訳文学に傾倒する。高校では新聞委員会に所属した。

1年の浪人生活ののち、1968年に早稲田大学文学部に入学。在学中は映画脚本家を目指して、大学へはほとんど行かず、映画の脚本を読みふける。また、シナリオの執筆などもしていた。

1971年、22歳の村上春樹は学生結婚をする。

大学在学中の1974年、25歳の村上春樹は東京都国分寺駅南口にあるビルの地下にジャズ喫茶を開店。翌年、7年間在学した早稲田大学を卒業した。

1977年にジャズ喫茶を渋谷区千駄ヶ谷に移す。

1978年、30歳の村上春樹はプロ野球の観戦中に小説を書くことを思い立つ。春樹はジャズ喫茶を経営する傍ら、作品を書き、翌年『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞。

1980年発表の『1973年のピンボール』は第83回芥川賞の候補作となる。

1981年、32歳の村上春樹は専業作家となることを決意しジャズ喫茶を人に譲った。

1986年10月からヨーロッパに移住。ギリシャ、イタリア、英国などに滞在し、1991年まで日本との間を行き来する生活を送る。

1987年、38歳のときに出版した『ノルウェイの森』が大ベストセラーになる。

2002年、53歳の村上春樹は『海辺のカフカ』を発表。2005年に『海辺のカフカ』の英訳版がニューヨーク・タイムズの “The Ten Best Books of 2005” に選ばれ国際的評価の高まりを示した。

2006年にはフランツ・カフカ賞など国際的な文学賞を続けて受賞。以後ノーベル文学賞の有力候補となる。

2009年、60歳の村上春樹はエルサレム賞を受賞。イスラエルによるガザ侵攻が国際的に非難されていたが、「何も語らないことより現地で語ることを選んだ」と春樹は授賞式に出席した。

村上春樹は自身が特に影響を受けた作家として、スコット・フィッツジェラルド、トルーマン・カポーティ、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガット、レイモンド・チャンドラーらを挙げている。

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目に見えるものが、ほんとうのものとは限らない。

遠くから見れば、大抵のものは綺麗に見える。

月の裏側に一人残されていたような恐怖を自分のことのように想像しながら、その状況の意味を何年も考え続けた。

一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。

高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ。

深刻になることは必ずしも、真実に近づくこと…ではない。

多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる。

僕たちは一年ごと、一月ごと、一日ごとに齢を取っていく。時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐ろしいことに、それは事実なのだ。

僕は逃げられないし、逃げるべきではないのだ。それが僕の得た結論だった。たとえどこに行ったところで、それは必ず僕を追いかけてくるだろう。どこまでも。

忘れたいものは絶対に忘れられないんです。

人は原理主義に取り込まれると、魂の柔らかい部分を失っていきます。そして自分の力で感じ取り、考えることを放棄してしまう。

私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。

 
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