豊臣秀吉の名言


豊臣秀吉の名言

Hideyoshi Toyotomi
豊臣秀吉

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、天下人。三英傑の一人。

国: 日本(現在の名古屋市中村区)
生: 1537年3月17日
没: 1598年9月18日(享年61歳)

【その生涯】 名言集へ行く

1537年3月17日(天文6年2月6日)、尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)に足軽の子として生まれる。

『太閤素性記』によると秀吉は7歳で父と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどをしながら放浪したといわれる。

しかし、秀吉の出自に関して明確なことは分かっていない。

1554年頃、17歳前後の秀吉は織田信長に小者として仕える。秀吉は清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げる。有名な逸話として、信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたといわれる。

1561年、24歳の秀吉は同じ足軽組頭の養女・おねと結婚。

1568年、31歳の秀吉は近江箕作城攻略戦で活躍。同年、信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任される。

1573年、36歳の秀吉は長浜城の城主となる。この頃、木下氏を羽柴氏に改める。

1575年には織田・徳川連合軍と武田軍が戦った長篠の戦いに従軍。秀吉は霧山城を攻撃して落城させた。

1577年、40歳の秀吉は毛利氏の勢力下にある中国地方攻略を命ぜられ出陣。

中国攻めでは、金と時間はかかっても敵を確実に下して味方の勢力を温存する、秀吉が得意とする兵糧攻めの戦術が遺憾無く発揮された。

1582年、織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害。秀吉は事件を知ると、すぐさま毛利輝元と講和し、京都に軍を返す。秀吉は明智光秀の軍勢を征伐し、京都における支配権を掌握した。

その後、秀吉は柴田勝家など織田家の実力者たちとの戦いに勝利し、家臣第一の地位を確立。表面上は信長の後継者の織田秀信を奉りつつ、実質的に織田家中を牛耳ることになった。

勢力を伸張した秀吉と徳川家康の対立が深まり、1584年の小牧・長久手の戦いで秀吉は家康と対峙。家康は軍略的には勝利したものの政略的には後れをとり、秀吉に臣従することになる。

1586年、49歳になった秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣に就任。豊臣政権を確立させる。1587年の九州平定、1590年の小田原征伐と奥羽仕置の完了をもって、秀吉による天下統一は達成された。

1592年、55歳の秀吉は、明の征服と朝鮮の服属を目指して16万の軍勢を朝鮮に出兵(文禄の役)。やがて戦況は膠着状態となり、明との間に講和交渉を開始。1596年に交渉が決裂すると、翌年14万人の軍を朝鮮へ再度出兵した(慶長の役)。

1598年9月18日、秀吉は後継者の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没。61年の生涯を閉じた。五大老により朝鮮半島の日本軍には帰国命令が発令された。

1600年、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握。1614年から1615年の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。

※ 人物詳細をWikipediaでチェック!

Wikipedia(日本語) / Wikipedia(英語)

★ 名言+Quotes の人気コンテンツ!

頑張れる言葉 ・短い英語の名言 ・かっこいい英語の名言 ・元気が出る言葉 ・人生が辛い ・感動する言葉 ・心に残る名言 ・偉人の名言(全181人)
 

豊臣秀吉 名言集


 
 
(P. 2 3

Page: 1

負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし。

戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである。

人と物争うべからず、人に心を許すべからず。

主従や友達の間が不和になるのは、わがままが原因だ。

猿・日吉丸・藤吉郎・秀吉・大閤、これも又皆がいやがるところでの我慢があったればこそ。

やるべき事が明確であるからこそ、日夜、寝食忘れて没頭できる。

主人は無理をいうなるものと知れ。

ひそかにわが身の目付に頼みおき、時々異見を承わり、わが身の善悪を聞きて、万事に心を付けること、将たる者、第一の要務なり。

それは上々、一段の吉日にござる。信長公のために討ち死にするは覚悟のうえ、二度と生きて帰ろうとは思わぬ。さてまた光秀の天命が尽きれば、大利を得て、思いのままに国をもらい、この播磨の城に帰ることはない。

人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。

いくら謙信や信玄が名将でも、俺には敵わない。彼らは早く死んでよかったのだ。生きていれば、必ず俺の部下になっていただろう。

信長公は勇将であるが良将ではない。剛を持って柔に勝つことを知ってはおられたが、柔が剛を制することをご存じなかった。ひとたび敵対した者に対しては、怒りがいつまでも解けず、ことごとく根を断ち葉を枯らそうとされた。だから降伏する者をも誅殺した。これは人物器量が狭いためである。人には敬遠され、衆から愛されることはない。

 
次ページへ続きます。 関連ページ等は下部にございます。
 

★「次ページへ」 ⇒