中村天風の名言


中村天風の名言

Tempu Nakamura
中村天風

日本の思想家、実業家。日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し心身統一法を広めた。

国: 日本(現:東京都北区王子)
生: 1876年7月30日
没: 1968年12月1日(享年92歳)

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1876年7月30日、豊島郡王子村(現:東京都北区王子)に生まれる。父は旧柳川藩士で大蔵省の初代抄紙局長であった。

天風は幼少期を王子村や本郷で過ごした後、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学(現:修猷館高校)に入学。すべて英語で授業を行っていたため語学に堪能になる。

天風は柔道部でもエースとして活躍。しかし、練習試合に惨敗した他校生に闇討ちされ、出刃包丁を抜いて飛び掛かってきた相手を刺殺してしまう。正当防衛は認められたものの退学になる。

16歳の時に帝国陸軍の軍事探偵(諜報員)となり、満州で活動。日露戦争が迫った1902年には松花江の鉄橋を爆破したり、青竜刀を持った馬賊と斬り合いを演じるなどの活躍を見せ「人斬り天風」と呼ばれたという。

日露戦争時の1904年、27歳の天風はコサック兵にとらわれ、銃殺刑に処せられる寸前に部下によって救出される。113名いた軍事探偵のうち生還したのはわずか9名であった。

日露戦争後、30歳にして天風は肺結核を発病。33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、米国へ密航。コロンビア大学に入学し、自らの病の原因を尋ねて自律神経系の研究を行ったとされる。

その後、天風はイギリスに渡り、そしてフランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候。各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった。

1911年、34歳の天風は日本への帰国の途上、エジプトにてインドのヨーガの聖人カリアッパ師に出会う。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第三の高峰カンチェンジュンガの山麓で2年半修行を行う。この修行を通じて結核は治癒し、さらに悟りを得るに至る。

1913年の帰国途上には、中国で孫文の第2次辛亥革命に中華民国最高顧問として協力。帰国後は東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。

1919年、42歳の天風は突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、統一哲医学会を創設。街頭にて心身統一法を説き始める。

1968年12月1日、天風は92歳の生涯を閉じた。

統一哲医学会には政財界の実力者が数多く入会するようになった。1940年には天風会に改称。東郷平八郎、宇野千代、ロックフェラー三世、双葉山、稲盛和夫、広岡達朗ら、多くの著名人が中村天風に師事した。

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今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に生きよ。

鉛は鉛、金は金。鉛に金メッキして、俺は金だというような顔をしなさんな。

船に乗っても、もう波が出やしないか、嵐になりゃしないか、それとも、この船が沈没しやしないかと、船のことばかり考えていたら、船旅の愉快さは何もなかろうじゃないか。人生もまたしかりだよ。

憎い人があろうはずがない。あなた方が何か憎らしいことを考えているだけだ。

土台を考えないでいて、家の構造ばかり考えたって、その家は住むに耐えられない家になっちまうでしょう。人生もまたしかりであります。

偉くなる人とそうならない人と、差が出てくるかっていうと、同じ話を聴いても、聴き方、受け取り方が全然違うからなんです。受け取ったことを自分の人生に、どう応用していくかということだけの差なんです。

どんな場合にも「こまった」「弱った」「情けない」「腹がたつ」「助けてくれ」なんていう消極的な言葉を、絶対に口にしないことです。

終始一貫、勇気勇気で押し切るのだ。

幸福や幸運は、積極的な心もちの人が好きなんですよ。

人生というものは、そこに進歩と向上があってこそ生きがいを感じ、勉強もし、努力もするんだぜ。

人の落ち度は、許すより忘れてしまえ。

信念、それは人生を動かす羅針盤のごとき尊いものである。従って信念なき人生は、ちょうど長途の航海の出来ないボロ船のようなものである。

 
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