上杉謙信の名言


上杉謙信の名言

Kenshin Uesugi
上杉謙信

戦国時代の越後国の武将、戦国大名。越後の虎、軍神などと称される。

国: 日本(現在の新潟県上越市中屋敷)
生: 1530年2月18日
没: 1578年4月19日(享年48歳)

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1530年2月18日(享禄3年1月21日)、越後守護代・長尾為景の四男として春日山城(現在の新潟県上越市中屋敷)に生まれる。幼名は虎千代。

当時の越後国は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返していた。

1536年に父・為景は隠居。兄・長尾晴景が家督を継ぐ。

1543年、虎千代は13歳のときに元服。長尾景虎と名乗る。

兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、1544年に越後の豪族が謀反を起こす。14歳の景虎は謀反を鎮圧することで初陣を飾った。

1548年、兄・晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は18歳で家督を相続し、守護代となる。

1550年、主君の守護・上杉定実が後継者を遺さずに死去。将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認める。

同年、一族の長尾政景が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こす。景虎は反乱を鎮圧し、越後統一を成し遂げる。

1552年、景虎22歳のとき、相模国の北条氏康に上野国を攻められ、逃亡してきた関東管領・上杉憲政を迎え入れる。景虎は派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退。

同年、31歳の武田信玄の信濃侵攻によって領国を追われた信濃守護・小笠原長時らが景虎に救いを求める。景虎は自ら軍を率いて信濃国に出陣。武田領内へ侵攻し、武田方の諸城を攻め落とす。信玄は決戦を避けたため、景虎は深追いをせず、越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。

その後も信玄と北信濃の支配権を巡る川中島の戦いは続き、計5回に及ぶ。

1560年、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、30歳の景虎は北条氏康を討伐するため関東へ向けて出陣。

翌年には相模国にまで侵攻、鎌倉を落とす。さらに10万余の軍で小田原城をはじめとする諸城を包囲。しかし、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制。景虎は小田原城を落城させるには至らず兵を引いた。

1561年、景虎は山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎と改めた。その後、将軍・足利義輝の一字を賜り、輝虎と改めた。

1568年、北条氏康は甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻した武田信玄と断交。翌年、氏康は長年敵対してきた輝虎に和を請い、輝虎は氏康と同盟を結ぶ。

1570年、40歳の輝虎は、氏康の七男・北条三郎を養子として迎え入れる。輝虎は三郎のことを気に入り、景虎という自身の初名を与えた。輝虎は法号・不識庵謙信を称した。

1572年、北条氏康の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄し、武田信玄と和睦。謙信は北条氏と敵対する。

同年、信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が上杉方の諸城を攻略。謙信は越中へ出陣し、尻垂坂の戦いで一向一揆に圧勝。

同年、信玄と交戦状態に入った織田信長から同盟の申し出を受け、謙信は信長と同盟を締結。

1573年、宿敵・武田信玄が病没。謙信は越中国へ出陣し、越中の過半を制圧した。

1576年、46歳の上杉謙信は信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と和睦し、信長との同盟は破綻。顕如は一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開ける。

1577年、織田信長は謙信との戦いに踏み切る。柴田勝家を総大将とする3万余の大軍は加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍。しかし、羽柴秀吉が総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げる。

勝家率いる織田軍は手取川を渡り、水島に陣を張ると、上杉謙信は数万の大軍を率いて一気に南下。形勢不利を悟った勝家は撤退を開始するも、謙信率いる上杉軍は手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した。

1578年4月15日、上杉謙信は次なる遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れる。同年4月19日に謙信は急死。48年の生涯を閉じた。

謙信は、養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを発表していなかったため、内乱によって上杉家の勢力は大きく衰えることとなる。

未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも推測されるが不明である。

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我が命のある間、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に希望はない。もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし。

生を必するものは死し、死を必するものは生く。

武士は馬を我が足と思い、弓鎗を左右の手と定め、敵を撃つ刃は己の心と考え、常に武道をたしなむ事が、本意の核心である。

大事なのは義理の二字である。死ぬべきに当たってその死をかえりみず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つ、これこそ武士の本意である。

昔時の名将は、暑日に扇をとらず、寒日に衣をかさねず、雨の日に笠を用いずして、士卒への礼とす。

信玄の兵法に、のちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない。さしあたっての一戦に勝つことを心掛けている。

戦場の働きは武士として当然のことだ。戦場の働きばかりで知行を多く与え、人の長としてはならない。

人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことは言ってはならぬ。

我は兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵を屈せしむる事をせじ。

人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。

極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし

※辞世の句

四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒

※辞世の句

 
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