明智光秀の名言には「敵は本能寺にあり」などがあります。
明智光秀の概要
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田信長に従い天下統一事業に貢献。本能寺の変では信長を襲撃し、自害させた。
氏名 | 明智光秀 |
生年月日 | 不詳(1528年説、1516年説などがある) |
没年月日 | 1582年7月2日 |
享年 | 不詳(1528年生まれの場合は54歳、1516年生まれ場合は66歳) |
国籍 | 日本 |
出生地 | 美濃国の明智荘の明智城(現在の岐阜県可児市) ※ 出生地も諸説あり |
職業 | 武将、大名 |
名言 | 自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている。 |
【その生涯】
明智光秀は、現在の岐阜県南部に位置する美濃国の土岐氏支流である明智氏に生まれたといわれる。生年は1528年説、1516年説などがある。
光秀は土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕える。
1556年に斎藤道三とその長男・義龍の親子の争い(長良川の戦い)が起きる。光秀は敗れた道三方であったため、明智城を攻められ一族が離散。光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えたといわれる。
1565年、室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺され、義輝の弟・足利義昭が朝倉義景を頼る。光秀は義昭に織田信長を勧め、織田信長に擁されて上洛した足利義昭は1568年に第15代将軍に就任。
1571年、石山本願寺が挙兵。光秀は比叡山焼き討ちで武功を上げ、近江国の滋賀郡(約5万石)を与えられ、坂本城を築く。
1573年、織田信長と対立した足利義昭が挙兵。光秀は義昭と袂を分かって信長の直臣として参戦。義昭は京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡した。
1575年、光秀は丹波国攻略を任される。翌年、正室の煕子が坂本城で病死。1579年、光秀は丹波国を平定。信長は光秀に丹波一国(約29万石)を与えた。
1582年5月、徳川家康の接待役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられる。
6月2日早朝に出陣した明智光秀は重臣達に信長討伐の意を告げ、光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲。信長は自害する。
その11日後、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍と明智軍が天王山の麓で衝突。明智軍は総崩れとなる。明智光秀は落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負い、自害したという。
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明智光秀 名言集
明智光秀の名言
瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない。
明智光秀の名言
仏のうそは方便という。武士のうそは武略という。土民百姓はかわゆきことなり。
明智光秀の名言
自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている。
明智光秀の名言
敵は本能寺にあり
明智光秀の名言
時(土岐)は今 雨が下しる(天が下知る) 五月哉
※ 光秀の発句 土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令するという意味合いを込めた句であるとしている。
明智光秀の名言
心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ
※ 辞世の句
明智光秀の名言
順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す
※ 辞世の句
明智光秀の名言
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No. | 明智光秀の名言 |
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1 | 瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない。 |
2 | 仏のうそは方便という。武士のうそは武略という。土民百姓はかわゆきことなり。 |
3 | 自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている。 |
4 | 敵は本能寺にあり |
5 | 時(土岐)は今 雨が下しる(天が下知る) 五月哉 ※ 光秀の発句 土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令するという意味合いを込めた句であるとしている。 |
6 | 心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ ※ 辞世の句 |
7 | 順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す ※ 辞世の句 |